法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

最初の卒論生

 大学へは2001年の4月に赴任したので,学生は当然私のことなど全く知らないわけです。当然,私のところを第一希望する学生はたぶんいないと思っていましたが,たしか2人だか3人いたと記憶しています(今とあまり変わらない)。卒論生として指導したのは,結局学部生8人,院生(満木先生から私に面倒みるように言われました)1人の計9人でした。どのように指導したらよいかもわからず,思いつくテーマを20ほど挙げて,その中から興味のありそうなテーマを選んでもらおうと思い,そのリストを彼らに渡したのですが,内容がよくわからなかったのか,先生が決めてくださいというので,結局こちらで4テーマ選ぶことにしました。当時は,慣例なのかどうか知りませんが,2人一組で卒論をやるのがデフォルトになっていました。私の大学の時は,元々研究室配属の学生が2~3人だったので,当然1人1テーマでした。これも学生数の多い私立大学だからなのかとその時は思っていました。

 ちょっとここで自分の卒論のテーマが決まった経緯を少し書きたいと思います。私の恩師の先生は,私が3年生の9月の時だったと思いますが,電力中央研究所から赴任されてきました。したがって,私は恩師の先生である田邊先生の研究室の第一期生となったのです。研究室を選ぶとき,最初は水系か交通計画くらいに行こうかくらいしか頭になくて,何をしたいとかどんなテーマだとか全く興味がありませんでした。とりあえず学部で卒業して建設会社に入ることだけ考えていました。水系も交通計画も比較的人気があって,じゃんけんだったかで確か負けて,どうしようかと思っていた時,若林君と岩田君(比較的仲が良かったと思います)の2人から希望者がいなかった田邊先生のところに行かないかと言われて,他に選ぶのも大変そうだったので,3人で田邊先生の研究室を選びました。

 人生ってこんなものだなと今だに思います。もし,あの時田邊先生の研究室に行かなかったら,今頃何をしていたかなと思いますし,少なくとも大学の教員にはなっていなかったと思います。何か不思議な縁があるのかもしれません。

 研究室に入って,4月に先生と研究室の3人,コンクリート構造の島田先生の研究室の学生2人で浩養園(だったと思います)という食べ放題の焼き肉店に行った時のことです(研究室というか講座の発足会のようなものだったと思います)。ひとしきりお肉を食べた後,やおら先生がB4のわら半紙(今の人たちは分からないかもしれません。ちょっと黄色いざらざらした紙)を取り出して,3人にそれを渡しながら,“若林君は地震応答解析について検討しなさい。岩田君は,せん断モデルについて検討しなさい。溝渕君はパイプクーリングの熱除去効果について検討しなさい”と3人のテーマについて話をされました。そのわら半紙には,数式が達筆で(先生独特の字で,解読するのに1か月以上かかりました)書かれ,私には“この式を展開して,離散化してプログラム作成しなさい”と言われました。3次元の熱伝導方程式と境界条件,パイプ壁面とコンクリートとの熱収支とパイプ内の熱移動方程式が書かれていたのですが,全く理解できないまま,それを鞄にしまいました。後輩たちに聞いたら,先生はその後も皆同じようにわら半紙を渡して,どんな研究をするのか話をされたそうです。

 私も最初の学生にそのようにできたらよかったのですが,田邊先生のようにはいかず,4つのテーマをぽつぽつと話しながら,一緒にどうやるのか考えようといったような記憶があります。4つのテーマは,若材齢時の乾燥収縮,自己収縮特性の温度依存性についての検討,コンクリートの温度応力によるひび割れ発生限界に関する研究,コンクリートの非破壊試験による含水率評価と塩化物イオン濃度測定技術に関する研究(電磁波の研究の始まり),水中不分離性コンクリートの初期流動性に関する研究でした。どれも自分が技術研究所で行っていた研究の延長上のものばかりでした。実は,この中で後に大きな研究テーマというか発見につながったテーマがありました。それについては,また明日書きたいと思います。