法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

平安京に都が移るまでは天皇が変わるごとに宮も移っていた?

 昨日書いたように,京都市美術館のM館長さんのインタビューの内容を,私なりに整理したものを少しずつ紹介したいと思います。ディレクターズカットではありませんが,紙面に載せられなかった話を中心に書いていきたいと思います。

 

 飛鳥時代以前についてはよくわかりませんでしたが,だいたい六世紀の末,蘇我氏の領土に飛鳥宮が造られたといわれています。その最初が推古女帝ですが,推古女帝は二つの宮を使っていたので,必ずしも一人の天皇が一つの宮とは限定できないようです。しかし,あの時期天皇が代わると宮殿が変えていたことから,天皇の呼び方として「何々の宮におわします天皇(すめらみこと)」という言い方をしていたようです。

 それが天武天皇飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を最後として,北の藤原京に移り,二代後には平城京へ移っています。したがって,藤原京以降は徐々に都自体も拡大・拡充されていったこともあって,歴代遷宮という言い方は徐々にされなくなりました。ただし,天皇ごとに宮殿を変えていたというしきたりがなくなったかと言えば,必ずしもそうではないようで,藤原京でも文武天皇のための宮殿をどうやら造っているという調査結果もあります。また,平城京時代になると,女帝などが出てくるのでちょっとややこしいのですが,それでも多分天皇ごとに宮殿を決めていただろうと思われます。

 これが平安京になると,面白い場所が現れてきます。平安京には大内裏図が残っていて,内裏とほぼ同じ規模のスペースが内裏の横にあって,宴の松原と言われています。宴の松原というのは,朝堂院が国家的な即位などの儀礼の場,国家的な饗宴の場が豊楽院で,その北にある広場というので宴の松原と言われたようです。このスペースは宴に使われたという事例はなく,肝試しの場所や鬼の出る場所だったようです。何のための場所かといえば,内裏とほぼ同じぐらいの規模なので,内裏が移る,そのスペアスペースではなかったかとも考えられています。ただし,そういう利用の仕方がされたことはありません(伊勢神宮式年遷宮春日大社の式年造替のようなことを計画していたが,実際には行われていなかったということ)。

 次に,内裏の中心,つまり天皇の所在地の一番中核は紫宸殿,仁寿殿,承香殿の三殿です。紫宸殿が表の場,仁寿殿が後殿とも言われおり,天皇の日常起居する空間となっています。そして,承香殿は後宮の世界となります。したがって,天皇の表の場,日常生活の場,後宮であるハーレムの三つがどうやら平安京の内裏の核になる部分だったようです。その背後に,七殿五舎と言われる建物が造られて,そこに妃たちが住んでいたようです。後に仁寿殿の真西に清涼殿ができるのですが,これは嵯峨天皇のときに造られています。清涼殿建設後は,仁寿殿である天皇が生活しますと,次の天皇は清涼殿を生活の場とし,その次の天皇はまた仁寿殿,清涼殿と交互に使うようになっていきました。これは一種の宮内遷宮の平安宮版であろうと考えていいと思います。

ところが,宇多天皇の九世紀の末になって清涼殿に固定されていきます。王朝貴族の世界というと,舞台はいつも清涼殿となっており,仁寿殿はいつしか荒れ果ててしまって,それこそ肝試しの場になっていきます。結局,宇多天皇の時代に清涼殿に固定してしまったことによって,以前からあった歴代遷宮故実はここで終焉となってしまいます。

 以上の点から,平安京以降都自体はもう移り変わることはありませんでしたが,天皇の生活の有り様としては歴代遷宮故実は九世紀に至まで伝わっていたと考えられます。

 明日は,京の都と言われる所以について少し書きたいと思います。