法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

古代国家の中心地としての都

 昨日の続きを書いていきたいと思います。日本の古代国家の形成過程について少し難しい話になりますが,書いていきたいと思います。

古代国家としての中心となる都が形成されていった最初が藤原京であり,藤原京は天武の皇后だった持統によって遷都しましたが,そのマスタープランは天武が作っていたのでないかと思われます。その時の一番の目的は,朝堂院を整備することにあったようです。この目的のために藤原京遷都が行われたのではないかといわれています。朝堂院の正殿が第六殿ですが,第六殿が出てくるのは天武天皇の時代です。天武天皇の時に天皇の地位,権威が飛躍的に高められていったようですが,その一番の施設として第六殿が造られ,それを含む朝堂院が国家的儀礼の場として造られたのだと思われます。ただし,その周辺にどの程度の役所が整備されていたか,また人々が集り住んだかは明らかとなっていません。

 都ができるということは,多くの立派な構造物ができるというだけでなく,国家の組織体制の有り様と深く関わっています。壬申の乱の後,古代国家が飛躍的に整備されて,天武天皇の時にそれが加速していきます。ただし,天武十二年(638年)十二月に出された詔は,一年のうちの四つの初めの月,一月,四月,七月,十月には必ず都へ出てきなさいというものでした。もし,出てこられない時にはちゃんと知らせろという言い方をしていますし,それを朝参(みかどまいり)の法と言っています。つまり,飛鳥京最後の飛鳥浄御原宮の段階でもまだ畿内豪族,畿外豪族たちが都に出てきて,都に定住しているという形ではなかったようです。したがって,都市的な実態というのは,まだ不十分であり,地方豪族が都へ出てきて定住し始めた段階で,初めて京の部分が充実していったといえます。そして,豪族達は定住した場所から宮の中にある役所へ出仕し,役人として仕事をすることとなります。これは,官司官人制度というものであり,都が整備されていくことの具体的な現れといえます。そして,定住した豪族達はやがて貴族と呼ばれるようになります。つまり,いままで農村部に本拠地をもっていた豪族が都の役人である貴族になっていったわけです。このことは,豪族としての自分の領土との関係がだんだん薄くなっていくこととなります。豪族から貴族へという大きな変化のなかに都というものが整備されていったわけです。

 長岡京も含めて平安京は,大和旧都に対して山背旧都と言えると思います。長岡京は十年で終ったということでややこしくなりますので,この場合平安京で考えてみると,平城京平安京との違いは,平城京の段階において大和の国に長いこと都があったので,平城京に住んでいる貴族たちは自分たちの領土(平城京近隣にある)との関係というのを濃密に残していたことにあります。それが山背に都が移ることによって,動線が長く延びて,やがて切れてしまう。言ってみれば古代豪族が,自分たちの領土との関係,本籍地との関係を断ち切って,都の貴族になっていったと思います。それまでの奈良貴族はまだまだ豪族的要素を持っていたようなので,力と力のぶつかり合いがありましたが,平安貴族になると,もうそれがなくなってしまいます。その代り,恨み辛みが内にこもって怨霊となり,物の怪になっていったと思われます。その意味でも都の有り様というものは平安京に移って,それ以前と一線を画する有り様となったと思います。