法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

京の都造りの費用は?

 今日は,遷都するとどれくらい費用がかかるものなのか具体的な数値ははじけませんが,どれくらい大変だったのか少し書きたいと思います。ちなみに,首都東京の移転の費用ですが,今から20年ほど前に試算した結果で約14兆円かかるとしています。今でしたら20兆円はくだらないかもしれません。今回の災禍で一極集中による感染爆発の危機を目のあたりにすると,災禍後,首都機能の移転の論議もでてくるのではないでしょうか。

 平安京は,それまでに行ってきた都造り,都市造りのノウハウの集大成とも言うべきものです。造宮職が,都造りに動員する人の地域割り,日割り,月割りや,どこからどのような物資を集中するか差配していたと言われています。ただし,無計画にあちこちから必要な人間を集めたというのでなくて,計画的に動員していたようです。

 長岡京の場合には,三十一万余の役夫を動員したというのが出ています。しかしながら,その当時の都の人口は十万人ぐらいだろうと思われることから,三十一万の人間が都造りの現場に集中したら,大パニックが起こってしまうと思います。住居や食糧の調達などとてもできないと思います。きっと延べ人数であったと思われます。したがって,平安京の造都の場合は,造営職がかなり有機的に差配したと思います。ただし,それに必要な経費がどれだけかかったかについてはわかっていません。桓武天皇が亡くなった日の『日本後記』の記述には,「当年の費えといえども,永年の頼みたり」とあります。当面大変な物いりだったけれど,国家百年の計を立てた人であるということで,やはり都造りは大変な費用がかかったと推察されます。また,平城京から長岡京への遷都の二年前に,桓武天皇は造宮職の組織を停止させています。この時,桓武天皇藤原緒嗣と管野眞道という二人の公卿を内裏に招いています。菅野眞道はテクノクラート,つまり技術官僚であり,緒嗣というのは普通の公家です。この二人を呼んで自分の前で造都事業の停止について議論をさせています。

 緒嗣は「今民の苦しむところは軍事と造作である。つまり,蝦夷計画と造都事業である。この二つをやめれば,民百姓は安んずることができましょう」と言ったのに対して,眞道は異論を唱えて,頭をタテに振らなかった。技術官僚としては,やはり最後まできちっとやりたいという思いがあったのだと思います。しかしながら,桓武天皇は緒嗣の意見を採用した。人々はこれを,賛嘆したと記録に残っています。これは,ある意味パフォーマンスだったのではないかと思います。最初から,やめるつもりなら,わざわざ二人を呼びつけて議論させることはなかったと思います。

 桓武天皇は,民意を惹きつけるためのパフォーマンスをするのが得意だったのではないかと思います。