法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

京の都の内裏は墓場となった!?

 今日は,京の都での天皇の住まいについて少し書きたいと思います。

 中世に入って,内裏はしょっちゅう焼けていると記録に残っています。放火等もあったかもしれませんが,基本的には冬場に焼けていますので,火の不始末によるものではないかと思います。そこで,天皇も徐々に内裏から出て,里内裏に住むようになります(自分の母方の実家)。つまり,内裏(本宅)があっても,母の実家である里内裏で住むようになるのです。そして,時々内裏の大内に行幸するというようになっていきます。時代が下るとやがてこれもなくなってしまいます。さらに,内裏周辺にあった役所もなくなってしまいます。

 鎌倉時代には,内裏は内野と呼ばれるようになります。つまり内裏の野原となってしまいしました。馬が放し飼いされたり,あるいは遺骸が棄てられたりするようになります。現在,平安京の内裏跡からの南北の通りを千本通と言いますが,この名前の由来は,千本卒塔婆卒塔婆(そとば:供養のために用いる細長い板のことで,故人や先祖を供養する追善供養の目的で立てられるもの。元々はストゥーパというサンスクリット語で,仏舎利を収めるお墓であり,寺の五重塔などはこのストゥーパの音読みで卒塔婆から,塔婆,塔となったのです),がたくさん建てられていたという理由でつけられた名前だと言われているくらいです。

 天皇自身は,前述したように里内裏と言われた摂関家が提供した邸宅に住むようになり,後宮の建物なども十分用意できなくなります。そうなると,後宮の女房たちの活躍の場もなくなっていきます。一丁四方,百二十メートル四方の公家の邸宅のような建物が,中世以降の内裏,天皇の居所となっていったのです。

では,中世以降内裏は誰が造営したかというと,頼朝以下,武家が造営しています。室町時代になると室町幕府,戦国時代には信長,秀吉が造営しています。特に,信長が永禄十一年に上洛しますが,それの理由の一つは親父の信秀が約束していた内裏を修造するということがあって,さっそく内裏修造にとりかかっており,これを永禄の内裏と言っています。

 その後,秀吉はその内裏を解体して払い下げを受けた後,造り替えを行っており,これを天正の内裏と言っています。その天正の内裏がまだピカピカであるにもかかわらず,家康はそれを解体して慶長の内裏を造っています。その家康の内裏をまた家光がまた造り替えています。これが寛永の内裏です。それ以後は内裏が焼けた時に造り替えをしています。それもみんな江戸幕府が行っています。幕末近くになり,裏松光世の研究を基にして造られた内裏が現在のもので,正確に言えば,一度焼けていますけれど,古い様式をできるだけ保ったものとなっています。

 このように考えていくと,天皇がずっと存続しえたのは,実は武家がそれを支えていたといえるかもしれません。教科書的にはこの二つの勢力は反目しているように思えますが,実はそうではなく,経済的な面を武家が支え,精神的な面を天皇が支えたと言っても過言ではないのでないかと思います。

 室町時代以後の京の都の歴史を考えると,二条城に象徴される武家の存在と天皇,公家の存在の二極構造で考えていく必要があると思います。京都文化というのは戦国期にできていきますが,そこには武家の果たした役割が非常に大きいといえます。ただし,京都の人は武家自体が嫌いだったようです。足利尊氏時代祭に登場しません。室町幕府というのは京の都にとって大きな存在であり,あって然るべきなのですが,やはり京の人々が好きじゃないからないのではないかと思います。

 しかしながら,江戸幕府になって天皇,貴族たちは生き返ったというような言い方をしている記録が残っています。江戸時代,大名たちと同じように公家たちも価格に応じて家禄などが保証されました。権威の存在としての天皇,権力の掌握者としての武家であったと思います。鎌倉幕府以前であれば,上皇,院,あるいは摂関というものが実際には天皇をバックアップしていました。天皇は子どもであっても,病人であっても,政治能力がなくても存在しているだけでいい。それをまた否定しようとせず支えている。こういう構造がずっと古くから続いたからこそ天皇制を存続したと思います。つまり,京都御所というのは日本の歴史の深層が込められている場所だと言ってもいいと思います。

 ヨーロッパや中国だったら,簒奪者がいとも簡単にひねり潰すぐらいのものですけども,それが出てこなかったのです。あの信長でさえ,それをしなかったのです。あれだけ古い文化を潰していった人が,なぜか天皇だけは大事にしています。ただし,勘違いしてはいけないのですが,天皇制が存続したのであって,天皇家が古代からずっと続いているわけではないのです。

 平安中世でも親子,孫と三代続いていくというのはきわめて珍しかったのです。