法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

黒部の太陽(前編)

 昨日は,ブラタモリ黒部ダムについて書きましたので,黒部繋がりで“黒部の太陽(1968年講公開,監督:熊井啓,出演:三船敏郎石原裕次郎他)”で石原裕次郎のモデルとなった笹島氏のことについて書きたいと思います。土木学会の取材で2008年の10月に笹島建設に伺ったのですが,その時笹島氏は91歳でしたが,すごく矍鑠とされていて,とても90歳を超えていられるとは思えない感じでした(2017年7月に99歳で逝去されています)。

 以下に,土木学会誌でのインタビューの概要を書きます。

 笹島氏は,黒部川第4発電所(黒部ダム)の大町2号トンネル工事において熊谷組笹島班の責任者として携わられたのですが,この世紀の難工事として知られる工事で一番苦労されたことについてお聞きしたところ,やはり大破砕帯の水と寒さだったそうです。夏でも水温4℃の冷たい水を浴びながらの作業で,かつ毎秒0.6トンもの勢いで降ってくる中での仕事でしたから,すぐに手がかじかんでしまって仕事にならなかったそうです。通常,トンネル工事は2交代で行うのですが,あまりに過酷であったので昼夜3交代だったそうです。しかもその中で1時間3交代で手や体を温めてからでなかれば作業ができなかったそうで,作業員の数も通常の6倍から7倍だったそうです。あれだけの難工事になると,建設会社の社員だとか作業員だとか関係なく皆一丸となっての仕事でした。発注者,施工者,作業員関係なく休憩所では電熱器で体を温める時は皆一緒でした。そういう連帯感があったからこそ,成し遂げられた工事だったと思います。

 今と昔のトンネル工事の違いをお聞きしたところ,機械の性能の違いだと言われていました。戦後,日本の土木工事ではアメリカ製の大型土木機械がどんどん投入されるようになって,それまでモッコでしょっていたものがブルドーザーであっという間に運べるようになったそうです。4トンダンプにスコップで土を入れるには4人の作業員で1時間は掛かっていたものが,シャベルで2回積むだけですから,ものの1分間で終わってしまいます。昭和28年に佐久間発電所工事を請け負った時に初めてアメリカの大型機械を見た時には,皆腰を抜かしてしまいました。こんなものを持っている国と戦争をして勝てるはずはないとつくづく思ったそうです。

 今は施工技術が発達したので,昔のような危険な作業は激減しました。黒四で行っていたような掘削はしないと思います。あのトンネル工事で遭遇した破砕帯に対しては,一端工事を中断して完全に周囲を固化させて,止水されたことを確認してから,少し掘削し,次の破砕帯を固化させるという青函トンネルで行われた方法で行われると思いますと仰っていました。当時は,そんな施工技術もなかったので,ただ勘で掘っていくしかなかったそうです。

 昔は,作業員は皆職人気質で,人のできないことをやってやるという強い思いを持っていたそうです。笹島氏も含めて生死をかけた闘いを経験してきた戦争経験者も多くいたので,黒四では最初「一生懸命やれ」と檄を飛ばしていたのですが,段々怖くなって最後は「注意してやれ」と笹島氏のほうが作業員を止める役に回っていたそうです。

 インタビューした(2008年)のが,黒四の工事からちょうど50年で,“黒部の太陽”の公開から40年ということで,今また映画や工事が脚光を集めていて,土木のイメージアップのためにマスメディア等を用いた広報活動を積極的に実施するべきとの声もあることについてお聞きしたところ,文化と国の発展のために是非行うべきだと言われました。橋でも道路でも最初に命がけで取り組んだのは土木の人たちです。その礎の上に現代社会があるのです。人のできないこと,人の開拓していない山奥などに最初に入って行くのが土木の仕事です。何ヶ月も山奥に単身で乗り込んで行って仕事をするのも土木です。しかしながら,今の若い人はそれを嫌がります。笹島氏は,土木は地球の開拓者であり,文明や文化を推し進めたのが土木であると言われました。土木というものをもう一度考え直してもよいのではないでしょうかとも言われました。

 土木の世界では,“黒部の太陽”を観て土木に憧れ,この世界に入ったという人も多くいます。そういう意味では,“黒部の太陽”は多くの人たちにとって土木を知るきっかけになったと言えます。