法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

海洋堂のセンム

 先日,海洋堂の話を書きましたが,実は2008年の7月に土木学会の取材で海洋堂まで行き,センム(宮脇修一さん,株式会社海洋堂代表取締役社長なのですが,何故か皆さんにセンムと呼ばれています)にインタビューしています。インタビュー当日,新幹線で新大阪まで行き,御堂筋線淀屋橋まで出て,そこから京阪に乗って門真市まで行きました。駅を降りて,高架下の道を歩いて,その後門真警察署を目指していくと,遠くにティラノサウルストリケラトプスの巨大な頭部がビルの上に載っているビルが見えてきます。これが海洋堂の本社です。

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門真警察署の向こうに海洋堂の本社が見えてます

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本社屋上のティラノサウルス

 敷地に入るとまず目に飛び込んでくるのが透明なガラスの中に鎮座している大魔神(1966年公開,「大魔神」(4月公開),「大魔神怒る」(8月公開),「大魔神逆襲」(12月公開)の3部作,監督:安田公義(大魔神),三隅研次大魔神怒る),森一生大魔神逆襲),出演:高田美和,二宮秀樹(テレビのマグマ大使の息子のガム役の子で,男の子ですが,とても可愛い顔立ちの子でした)他)です。実際に映画で使用されたもので,大映(京都撮影所)の倉庫に半ば朽ち果てた状態のものを海洋堂のセンムが1986年に譲り受けたもので,修復後海洋堂の守護神として本社2階に安置しているとのことでした。

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海洋堂本社2階に鎮座する大魔神

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造形の守護神,大魔神

 入口から入るといろいろな荷物が置かれていて,その奥に映画“ローレライ(2005年3月公開,監督:樋口真嗣,原作:福井晴敏終戦のローレライ」,出演:役所広司妻夫木聡柳葉敏郎香椎由宇(確か,映画初出演だったと思います)他,原作も読みましたし,映画も観に行きました)”で使用した「伊-507」の巨大なプロップと「ローレライシステム」のプロップが無造作に置かれていました。

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荷物の奥に無造作に置かれている映画ローレライで実際に使用された伊-507のプロップ

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巨大な伊-507のプロップと手前はローレライシステムのプロップ

 インタビューは2階の会議室で行われましたが,そこまでに行く通路にはこれまでの海洋堂ガレージキットの数々が置いてあり,ずっと眺めていたいのを我慢して会議室に向かいました。センムはこれまでの海洋堂の歩みやモノづくりへの迸るような熱い情熱について語ってくださいました。大阪の片田舎の小さな模型屋だった海洋堂ですが,その後のガレージキットブームで日本中から造形好きが集まり,いわゆる造形集団ができ,チョコエッグの大ヒットをきっかけにいろいろな食玩ブームを巻き起こした話はとても面白かったです。

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こんなフィギュアが通路に所狭しと置かれている

 “模型の疲れは模型で取る”(NHKのプロフェッショナルに出演した時(2013年7月放送)にも同じことを言われていた)という言葉が,同じプラモデル好きには羨ましい一言でした。私も仕事の疲れは模型で取るなんて言ってみたいものですが,現実はそうなっていません。楽しいインタビューの時間が終わって,センムに個人の展示部屋を見せてもらったのですが,すごく大きな部屋に製作されたプラモデルが並んでいて,その脇には貴重な絶版物のプラモデルがここでも無造作に置いてありました。この人,本当に好きなことだけやってきた人だと思いました(きっといろいろ苦労もあったと思いますが,趣味が仕事になって成功した一人のような気がします)。大阪だからかもしれませんが,何か模型界の豊臣秀吉を見ているような気がしました。

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海洋堂が出した食玩の数々

 お土産に,ワールドタンクミュージアムを箱ごと(36箱入りだったと思います)もらいました。実は,その後センムにお願いして,樋口真嗣監督(平成ガメラシリーズ,のぼうの城シン・ゴジラなどの特技監督)にインタビューの依頼をしたのですが,私が土木学会誌の編集委員に在籍中には実現できず,その後何年かして実現したのを,土木学会誌を読んで知りました。紹介者として誌面に載ることは当然なかったのですが,インタビュアの熱い想いが感じられず,私にさせてくれればもっと面白い取材をしたのにと残念に思いました。