法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

新聞取材(インタビュー)

 先日,テレビ取材の話(話だけで終わってしまった話)を書きましたが,本日は先日取材のあった北海道新聞のことについて書きたいと思います。この手の依頼は,大体学部事務から連絡が入ります(先日のテレビの時もそうです)。今回はダムのことでお話しを伺いたい旨の連絡であったので,お引き受けしました。記事を書くのはフリーランスの方で,北海道からわざわざ来られるのかなと思っていたら(地方新聞なので,取材費というか出張費が出るのかなと思っていました),現在横浜在住とのことで,日程もすぐに決まりました。インタビューは1時間30分程度でしたが,どうも北海道のダムの歴史について知りたかったようで,結構色々固有名詞を出されるのですが,こちらは全て北海道のダムの名称を把握しているわけではなく,私自身の話としては一般的なダムの歴史の話に終始しました。

 以下は,記者の方から送られてきたゲラです。新聞が出たら送りますと言われたのですが(8月28日に出ているはずです),まだ手元に来ていないので,このゲラを読んでいただければと思います。謝金は勿論ありませんでした(お菓子を持ってこられたので,研究室の学生に渡しました)。こちらが話をしたという部分は3行ほどしか載っていませんが,石狩川水系の話,二風谷ダムの話などは私が話した内容を一部基にされています。その他,岩見沢のダムの話や笹流ダムの話も取り上げてくれていました。

 雑誌の取材も結構ありますが,大体は記事にならないものの方が多いような気がします。週刊文春やフライデー(2回も来ました)などはボツというか元々記事にもしていないと思います。まあ,マスコミ関係というのはこんなものかもしれません。

 

“川をせき止めて水をためるダム。ダムというと巨大な構築物をイメージしますが、ダムの高さが15㍍未満のものをため池と呼びます。北海道では明治半ばに峰延(美唄市)で水田に水を引くため池がつくられ、その後、農業や発電などに使うダムが各地で建設されていきました。現在、道内には全国最多の189基のダムがあります。

 日本では農業用水の渇水を防ぐため、6世紀以来、ため池がつくられました。日本の国土は平地が30%程度しかなく、急峻なため、降った雨をためる工夫をしなければ水不足に陥ることなどによります。

 「明治以降、こうした条件の下で『富国強兵』を図り、主に利水のダムが全国でつくられました。それらは農業用水や水道水、工業用水を必要に応じて供給できるようにためる役割があります。ダムの高低差を利用して電気をつくる発電ダムもあります」と語るのは、法政大デザイン工学部(東京)の溝渕利明<みぞぶち・としあき>教授(60)です。

 それでは北海道の場合を見てみましょう。「石狩川水系農業水利誌」(農業土木学会)などによると、道内で最初のため池は、美唄市の峰延二号川ため池です。郷土史家の白戸仁康さん(83)は「神山惣左衛門という空知集治監(現在の刑務所)の作業指導員が二号川沿いでコメ作りを志し、上流部で大木を切り倒して敷き並べ、土をかぶせて川をせき止めました。1889年(明治22年)に小規模なため池が姿を現し、その後拡張されて現在も使われています」と話します。

 こうして空知・上川地方に稲作が広がり、水田面積が増えるに伴って、1913年(大正2年)に道庁の桜岡第一ダム(旭川)が竣工。土で堤体をつくった高さ17・4㍍の農業ダムです。翌年には岩見沢などにもつくられました。

 第1次大戦で電力需要が高まると、18年に発電用の王子製紙千歳川第3ダム(千歳)などが完成。23年には「日本初で国内に数基しかないバットレスダム。構造美は必見」と溝渕教授のいう、高さ25・3㍍の笹流ダム(函館)が建設されました。上水道用です。水圧を支える壁を縦横組み合わせた扶壁(バットレス)で受け止める構造で、当時高価だったセメントを節約するため、コンクリートに鉄筋を入れています。

 第2次大戦が勃発し、国内の労働力が不足すると、上川管内東川町の工事では中国人の強制労働が行われました。「44年、忠別川から水田に引くかんがい用水の水温を上げ、冷害を回避するための温水ため池の工事で、多くの中国人が犠牲になりました」。元東川町史編集専門員の西原義弘さん(77)は証言します。

 現在道内にあるダム189基のうち、戦前に竣工したのは37基(日本ダム協会)で、多くは戦後につくられました。大規模な発電ダムの建設も相次ぎ、63年竣工の高さ61・2㍍、北電の奥新冠ダム(新冠)もその一つです。そして米国の地域総合開発に倣って、洪水調整など多目的ダムの建設が進められてきました。

 98年に運用を開始した日高管内平取町の二風谷ダムは、土地の収用を巡って裁判が行われました。原告の故萱野茂さんの次男で、萱野茂二風谷アイヌ資料館の萱野志朗館長(62)は「いまはダムの底に眠る場所で、かつて舟下ろしの伝統儀式『チㇷ゚サンケ』が行われていました。アイヌ文化にとって土地はそれぞれに固有の意味をもつのです」と語ります。二風谷ダム裁判で札幌地裁は、アイヌ民族先住民族と認め、「伝統的な文化を享有する権利」も認めて土地の収用を違法としました。

 近年は異常気象が頻発し、ダムの治水機能が見直されています。どのような自然や文化とダムの共生が望ましいのか。考えさせられます。“

 

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美唄市にある峰延二号川ため池(2018年撮影、北海土地改良区岩見沢事業所提供)

 

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函館市にある日本初のバットレスダム、笹流ダム(大正期に撮影、函館市企業局提供)

 

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新冠ダム(北海道電力提供)