法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

土木と僧侶(道昭と行基)

 仏教が日本に伝わってから1500年近くになります。仏教伝来後の飛鳥時代から奈良時代にかけて,仏教の教えを請うために,多くの僧侶が中国(隋や唐)に渡っています。かの地で修業を積み帰国する者もあれば,道半ばで異国の地において遷化された僧侶も数多くいます。当時,中国に渡った僧侶たちは,仏教だけでなく,医学,薬学,土木・建築学を学んだといわれています。寺院は,仏教の教えを説く場だけでなく,中国から持ち帰った多くの学問を説いた場でもあったのです。寺院は,今の総合大学に相当し,僧侶は差し詰め大学教授といったところでしょうか。遣唐使として中国に渡った僧侶の一人に道昭というお坊さんがいます。道昭は、舒明天皇の御代である629年に河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市))で生まれ,653年に遣唐使の一員として定恵(中臣鎌足大化の改新で名を馳せた人物,藤原氏の始祖)の息子で,665年に帰国しています)と一緒に唐に渡り,玄奘三蔵西遊記三蔵法師は,この人がモデルです。実際,玄奘三蔵はインドまで旅をして,多くの経典などを持ち帰り,その翻訳に生涯を捧げたと言われています)に師事して法相宗の教義を学んでいます。660年頃帰国し,飛鳥寺元興寺)に禅院を建てて,法相宗の教義を広めたといわれています(日本における法相宗の始祖)。道昭は,人々のために井戸掘りをしたり,川に渡しを造ったり,橋を架けたりと今の土木事業を行ったと言われています。まさに土木技術者の最初かもしれません。この道昭の弟子に行基という僧侶がいます。

 近鉄奈良駅の前にこの行基の像が立っています。行基は、天智天皇の御代の668年に河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)で生まれ,15歳で出家しています。24歳で受戒(仏教に帰依する証として戒律を受持すること)していますが,この当時は正式に授戒できる僧侶がいませんでした。そのため,高宮寺徳光禅師という高僧が行基の授戒を行っています。授戒が正式に行われるようになったのは、後に鑑真和上が日本に来られてからです。鑑真和上を日本に招聘した目的は,この授戒ができる僧を招くためだったのです。ちなみに,日本には三戒壇があり,東大寺戒壇院,大宰府観世音寺戒壇院と下野薬師寺戒壇院です。

 行基は,知識結と呼ばれる宗教集団を組織して機内を中心に平城京遷都で疲弊した貧民たちを救うために,直接民衆に仏教の教えを説くことを朝廷が禁じていたにもかかわらず,、禁を破り布施屋(今でいう救済所のようなもので,食事などを施した場所)を9箇所,寺院等を49か所,溜池の整備を15箇所,溝や堀の構築を9箇所,架橋を6橋というように,布教とともに多くの社会事業,土木事業を行っています。行基は,朝廷から度々弾圧や禁圧をされたそうです。その後,行基が行っていた布教などは反朝廷の意図はないことがわかり,弾圧は緩和されて,732年には行基の土木技術や民衆の動員能力を借りて河内国の狭山池の修復を行っています。さらに,行基聖武天皇から東大寺の大仏造立の責任者として招聘され,見事に毘盧遮那仏奈良の大仏)を完成させています。その功績によって,東大寺の四聖人(本願主の聖武天皇東大寺を開いた良弁,大仏開眼供養で導師を務めた菩提僊那,大仏造立を果たした行基)に数えられています。