法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

会社勤めは,つらい? 楽しい?

最近,嫌なことがあって,少し悶々としているですが,そういう時は不思議とつらかったことや昨日書いたような失敗談が頭の中に浮かんできます。こういうのが続くと鬱になってしまうのかなと思ったりもします。まあ,私は生来楽観主義なところ(O型の典型といわれたことがあります。ちなみに妻もO型なので,家族全員O型ですが,それぞれ性格は違います)があるので,しばらくしたら忘れてしまうと思います。ですので,思い出したときに書いておこうと思います。

 

1980年代前半に国内でアルカリシリカ反応が確認されて,全国にその事例が多数あったことから,塩害とともにこのアルカリシリカ反応が日本中に蔓延しているという事実に対して,マスコミなどは“コンクリートクライシス”と大きく取り上げたのを入社間もない頃,ニュースで見ていたのを覚えています。まさか,自分がそのアルカリシリカ反応の研究をその後行うとは思いもよりませんでした。私がアルカリシリカ反応の研究に関わった頃の失敗談をしたいと思います。

私は,1984年に大学院を出て建設会社に入社し,最初の配属先が研究所でした(現場希望だったのですが,何故か研究所に配属されてしまいました)。しばらくは,いろいろな文献(日本語や英語)を渡されて,日がな一日机に座って,それらを読んだり,訳したりしていました。寝ないようにするのに苦労したのを覚えています(眠くなるとトイレに行ったり,図書館に行ったりして休憩(要はうたた寝)していました)。しばらくして,セメント硬化時の発熱に伴って生じるひび割れ(セメントの水和発熱に伴う温度応力によって生じる温度ひび割れ)を抑制するための混和材の効果の実験を行うように言われ,コンクリートを練り混ぜ,供試体の作製,恒温室(室内が40℃,60%RHもある熱帯のような部屋)で毎日のように測定をしていました。40℃の部屋に1時間もいるとフラフラになってしまうのを何度も経験しました(今でいう熱中症になっていたのかもしれません)。

その実験が終わると,今度はアルカリシリカ反応を起こしたコンクリートの測定をするように言われました。ちょうど世間がアルカリシリカ反応によるひび割れで騒いでいた入社1年目の後半のことです。現場から採取されたコアの残存膨張量試験(アルカリシリカ反応による膨張作用がどの程度残っているか判断するための試験)を行っていました。ここでも,残存膨張量を促進させるために,40℃の恒温室で測定を行いました。ちょうど寒くなり始めた時期でしたが,汗ダクダクで測定を行っていたのを記憶しています。若かったからできたようなものですが,今であればすぐに熱中症になって救急車で運ばれていたに違いありません。当時は,アルカリシリカ反応を起こす骨材かどうかを判断する試験法が国内になかったので,アメリカで行われている試験法に従って行っていました。アルカリシリカ反応の有無を判断する試験法には,化学法とモルタルバー法があるのですが,化学法は研究所内の化学グループのほうが担当し,私の方はその試験法を評価するために,いろいろな骨材,配合を変えてモルタルの膨張量の測定を行っていました。アルカリシリカ反応自体は,自然の環境下では発生するのに長い場合数十年かかることから,発生の有無の確認のための促進試験が行われたのです。

上述したようにこれも40℃の恒温室で行い,おまけに今度は湿度が60%RH以上のまさに熱帯のジャングルのような環境での測定でした。この時,アルカリシリカ反応を起こした供試体の写真を経時的に撮っていくように上司から言われ,供試体全体の写真を撮っておけばよいと思い,アルカリシリカ反応で生じた供試体のひび割れのアップの写真を接写して撮っていませんでした。確かに,出来上がりを見てみないとわからないということもあり,目的も考えず無難な写真を撮っていたのです。出来上がった写真を上司に見せた時,“おまえは,何のためにこの実験をしているのかわかっているのか”と一喝されました(新入社員の頃は怒られてばかりで,その当時は手や足が飛んでくるのもしょっちゅうでした)。何のために写真を撮っているのかわかっていなかったのは事実ですし,言い訳の仕様もない状態でした。数mmのひび割れが供試体に生じているわけではないので,接写しないとひび割れ自体十分確認できなかったのです。その後は,接写の写真を無駄にたくさん撮っていました。今のようにデジカメで撮っているわけではないので,カメラで撮って出入りの写真屋さんにネガを渡して,ベタ焼きというネガをそのまま写真にしてもらって,そこから,よさそうなものを選んで,写真にしてもらっていました。ひどく怒られたので,次の失敗は許されないと思い,違った意味で無駄な写真を山のように撮って,上司から,“一枚いくらかかっているのかわかっているのか”とそのことでまた怒られる羽目になりました。

その当時ついていた直属の上司はとても厳しい人で,確かに言っていることは正しいのですが,物言いが高圧的で,今でいうパワハラ上司でした。事ある毎に怒られてばかりであったのですが,その時は怒られるのは自分の出来が悪いからだと思っていました。厳しい上司ではありましたが,ものごとの考え方やどのようにしたら効率的に実験ができるかなど数多くの事を今思えば教えられた気がします。