法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

京の都の立地条件と文化

 平安京自体は,内陸部に位置していますが,都の左右に流れる鴨川と桂川は淀川となり大阪湾に流れ込んでいます。水運の点からはむしろ外港,港として機能したと考えるべきではないかと思われます。やはり本拠は内陸にあるわけです。

 たとえば,長岡京は周囲に天王山や男山があり,そして三つの川が合流する北側にあることから,一種の要害の地でもあったわけです。平将門が関東で乱を起こして,天皇を名乗り,自分の本拠地近くに王城の地,都を造ろうとしました。その時自らの都に対して,この場所は山崎に相当するところだ,またこの場所を京の大津に相当する場所だと言ったそうです。つまり,その当時大津と山崎というのが,いわば平安京の外港として設定されたことを示していると思います。大津は琵琶湖水系を使って,東海,東山,北陸に行けますし,山崎は淀川を通って西へ行きますし,そういう意味では平安京というのは内陸で,交通の便利も悪いように見えますが,実は交通の要衝であったと思われます。

 奈良時代の文献に,近江の国について藤原武智麻呂が近江の守になったときの記述があります。「近江の国は東西二陸の喉である。ここを通っていかないと,東から西へ,西から東へ行けない,そういう要所だ」という言い方をしていますが,それと同じようなことが京都盆地にも言えるのではないかと思います。

 しかしながら,京都は何と言っても,逆Uの字型の盆地にあるわけで,夏暑く冬寒いところでもあります。もし,京都の周囲に山がなくて,開けた江戸みたいな感じだったら,相当違っていたかもしれません。江戸時代の資料に,江戸の人が京都へやってきた時に,「京の都は周囲が山で狭苦しくて息が詰まりそうだ。だから雨が降った日には山が見えないから,却って晴れ晴れしい」というような記録があります。江戸の人のように周囲に遮るものがない,そういう者にとって京都は盆地の中で,息苦しい閉塞感さえあったと思われます。しかしながら,「春は曙 やうやう白くなり行く 山際少しあかりて・・・」という,あの感覚はまさに自然とのほどよい距離に人々が生活していたということで生まれた感覚だと思います。また,京の都は平安京遷都後千年以上の長い年月をかけて京都文化というのが熟成されてきました。その間に潰れた文化もあるでしょうし,残っていったものもあります。他の古い都はみなある期間で廃絶して田園に帰してしまい,文化もその段階で断ち切られてしまっています。人間の生活には,いろいろ変動があっても継続していく,そういう継続性こそが京都文化を生みだしていった一番の源ではないかと思います。

 京の文化の有り様を考えた時,古くからずっと続いているものがあるから,それをどうしていくのか,あるいはそれからどう抜け出すのか,またはどのように切り捨てるかということを常に考えているからこそ新しいものが出てくるのだと思います。古いものがあるからこそ,新しいものが生まれてくるのです。だから,京都は一面では非常に古さを持っていると同時に,飛び抜けて,斬新で先端的なものが産まれてくるのかもしれません。