法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

京の都の衛生状態

 平安時代の都の衛生状態はどのようであったのかというと,当然ですが,現代に比べて良いはずはなかったと思います。仮に役所なり内裏で下水道が当時の技術で造られていたとしても,結局流すのは川しかなかったわけです。当然川は汚れることになります。平城京では「汚き佐保川」と言われました。平城京では佐保川が唯一の川なので,すべてここに流されたわけです。そのころの資料としては,「汚き佐保川」で見つけた髑髏を使って,時の天皇である孝謙女帝が上皇を占うという言い方をしているものがあります。

 平安京は,今は姿を消していますけど,大小かなりの数の川が京都盆地の中を流れていて,条坊制に従ってたくさんあったと思います。記録には,三百以上の橋が京の都に架かっていて,それをちゃんと役所が整備してないのはなぜだと咎められているものがあります。京の都は,その点平城京よりは多少はよくなっていると思いますが,今日的な視点で言えば,衛生状態はやはり悪かったといえます。したがって,天然痘赤痢のような疫病なども流行ったと思われます。ただし,飲み水は基本的に井戸だったようです。記録にも日照りの時に井戸が枯れたとか,あの井戸の水を飲めばいいんだということでわっと押しかけたという話も残っています。基本的には,井戸水を飲んで,汚いものはみんな川に流していたのでないかと考えられます。

 また,汚物の処理に用いられたのが,人家のあった菜園です。人糞が肥料として使われていたのです。つまり,京の都の真ん中に畑があったことになります。今で言えば,銀座の真ん中に菜園があるようなものです。寝殿造の建物のうち,正殿のうしろに奥方を置いた北の対があり,さらに,その後に菜園があったようです。十世紀の末,後園に人糞を使ったという記録があります。後の時代になって,だんだん人家が密接するようになってからは,そういうものもなくなり,条坊制が崩れ,人家が軒を連ねていき,今日われわれが見るような町並みになっていったと思います。だから,平安京に家が密集していたと考えないほうが良いと思います。しかも平安京全体の規模の半分ぐらいしか市街地化されてはいなかったのではないかとさえ思える節があるのです。