法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

何故,平安京以降都を移らなかったのか?

平城京まで頻繁に遷都していたのに,平安京が造られて以降,何故千年近くもずっと京の都から他に移らなかったのはどうしてかという疑問は誰でも持つと思います。理由は定かではありませんが,一番はやはりもう遷都するだけの体力が残っていなかったのではないでしょうか。唯一,清盛の福原遷都がありましたが,何の根回しもなく遷都しようとしたので失敗しました。したがって,福原遷都は,遷都で失敗した唯一の例と言ってもいいと思います。そうなのです。鎌倉幕府室町幕府江戸幕府も結局政治の拠点をかえましたが,国の都として遷都することはしていないのです。

では,何故遷都しなかったのか。それは,平安京遷都以降,政治的・経済的な面から言って,京の都が日本列島の中心であったことは間違いないので,それを動かすというような発想はなかなか出てこなかったのでないかと思います。頼朝が鎌倉に幕府を開かざるを得なかったのは,京都の貴族の魔力というか,呪力から離れたところに軍事(武士)を中心とした新しい政権をつくらざるを得なかったためだと思います。ですから,天皇を鎌倉にお連れするということ自体しなかったと思います。足利幕府の時代になると,今度は京都へ乗り込んでくるのですが,この場合には,やはり京都が政治・経済の中心であると認めていたためだと思われます。つまり,足利幕府は日本の中心地は鎌倉ではなく,京の都にあるのだとあらためて認識したのだと思います。

そして,室町時代の最大の戦禍といえる応仁の乱で京の都は焼け野原になったといわれています。その乱では,足利将軍は難を逃れて都を離れたりしていますが,聖武天皇のように天皇自らが都を離れたり,遷都することはありませんでした。では,京の都が応仁の乱で都全体が本当に焼け野原になったのでしょうか。多くの人たちはいまでもそう思っていると思います(私もそう思っていました)。

実は,近年の研究で焼け野原になったのは主として上京の部分であって,下京はそれほど焼けてないのでないかと見られています。二条通から北が上京,南が下京で,上京のほうが規模としては小さかった。下京のほうはダウンタウンで庶民の町,上京のほうが貴族の町だったが,中世だと武家と貴族,それを顧客とする西陣織の町でした。最近では,戦争して焼けたのは上京のほうであって,下京のほうはそれほど焼かれてなかったこと,その他焼けたのは東山の麓などであるといわれています。ちなみに,京都は逆Uの字型に囲まれており,その麓に由緒ある寺社が点々とあるという,一種の里山文化を形成しているわけですが,そのあたりの社寺も焼かれたようです。いずれにせよ京の都全体が焼け野原になったというのはちょっと誇張があるようです。