法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

長岡京から平安京へ

 今日は,長岡京からいよいよ平安京に遷都していく過程の話を書きたいと思います。

 長岡京造都においては,実はその中心になった藤原種継がこれからというときに暗殺されてしまい,長岡京造都自体が停滞と混迷に陥って歯車が合わなくなってしまいます。二~三年経ったころに桓武天皇が何とかしないといけないというので詔を出して,長岡京遷都に対して,何とか体勢を立て直そうとします。てこ入れをはかって,工事は継続されるのですが,中心人物が反対派のために殺されて,やはりうまくいかなかった。そこで,和気清麻呂があるときに桓武天皇に「もう造都を始めて十年経過し,膨大な経費を投入してきました。しかし都はまだできていません。だからもう長岡の地は捨てましょう」と進言します。ここの棄都の論理・理由は現代の私たちでは理解できないのですが,桓武天皇はそれに対して,「得たりやおう(自分にとって好都合に事が進んだときや心得て物事を受け止めるときに勇んで発する言葉だそうです。誰かが言ってくれるのを待っていたのだと思います)」と言われて,平安京を造ることにしたのです。

 このように棄都できた理由の一つとして,長岡京にも難波京平城京の瓦とか木材などのいろいろなものが解体して移されており,平安京にも長岡京から移されたものが多数あったためではないかと思います。つまり,棄てる都は百パーセント棄てられるのではなく,リサイクルしているということです。今せっせと造っている長岡京に対して,「ああ,ここを棄てよう」という決意を桓武天皇にさせたのは,この理由もあったのかも知れないと思います。

 長岡京については,大水が出たとか怨霊のせいだとか言いますけれども,やはり十分な都としてできていなかったためだと思います。きちっとしたものができていれば,遷都することはなかったと思います。発掘調査した人の中には,長岡京だって未完の都ではなかった,いろんな建物ができていたのだと言う人もいますが,やはり長岡京は未完の都で終ったのではないかと思います。

桓武天皇は,藤原種継に任せていた造都事業について,平安京造都では自ら先頭に立って行っています。桓武天皇平安京造りのときには三十数回かにわたって京中巡行して,工事現場を視察したとか,督励したという資料が残っています。桓武天皇にしてみれば,二度と失敗は許されないという,そういう思いで平安京を造ったのだと思います。ただし,もし何かなければ,長岡京がそのまま京都になった可能性が高いと思います。

 遷都という意味合いからすれば,大和旧都を棄てて山背(やましろ)へ移る。平安京には,淀川水系という大河川があり,すべて川に流す当時としての衛生面,物資輸送の面から,大河川に近接していることが必要条件だったと思います。また,世俗的な力を伸ばしてきた仏教を押え込む必要もあったと思います。したがって,桓武天皇平安京の京中に寺を建てさせていない。もちろん,これだけの理由だけではありません。元々このような条件で最初に行ったのが長岡京だったようです。それが種継の暗殺などがあってできなかった。

 平安京は,長岡京のマイナーバージョンと言えます。長岡京に込められた意図は,平安京が造られたことによっていちおう成就した,完成したと思いますので,これは両方含めて考えないといけないと思います。

 『雨月物語』の上田秋成が,『春雨物語』という中にこのあたりのことを取り上げていて,長岡京には平城京の貴族たちは移らなかったということを書いています。これから移ろうかという時に,造都の中心人物が殺されて混迷に陥ってしまう。平城京にいる貴族たちはもうちょっと様子を見ようかという気分になっていたものと推察されます。だから,長岡京を素通りして,平城京から平安京に移ったという貴族もいたかもしれません(あくまでも推測です)。

 次回は,何故平安京以降都を移らなかったのかについて書いていきたいと思います。