法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

京の都と言われる訳

素朴な疑問で,京都の京は元々藤原京平城京平安京などの都を指す言葉なのですから,京都は都の都になってしまいます。チコちゃんに聞いてみたいところです。今日は,京の都の話を少し書きたいと思います。

旧都の歴史では,天皇が住んでいるところを宮殿,それに付属する建物や組織を内廷,内廷の周辺にある一般の役所を外廷という言い方をしています。卑弥呼邪馬台国では,宮殿,内廷,外廷が未分化の状態で,全体を取り囲んで護衛兵が守っていたというような状況だったようです。それが内廷としてだんだん拡充されていき,平安京大内裏になっていきました。そして外廷部分も役所が増えていき,徐々に拡充され,最終的には平安京で一定区画に取り込まれて整備されるまでに至っています。また,内廷と外廷の未分化の状況が徐々に解消され,それぞれが拡充していく一方で,それらを取り込む境域部分に,住宅街ができてきます。これを宮と言い,さらにこの宮を取り囲む市街地全体を京と言い,宮と京を区別して考えています。

実際にはあまり明確に使い分けされているわけではないようですが,都を考える時,宮と京を分けて考えなければなりません。歴史的な言葉を用いれば,都は百官の府といわれています。たくさんの役所があり,境域も含めた,宮+京として百官の府というわけです。百官の府という言葉が使われるのは,平城京時代からのようですが,平城京には図面,指図が残っていないので,宮と京の区別がはっきりしていません。ただし,福原に遷都しようとした時の記録に,奈良の指図を持って行ったという話が出てくるので,平安末期のあの頃には平城京の図面があったのかもしれませんが,今日では伝えられていません。

福原遷都というのは,平清盛が京の都を捨てて神戸に都を造ろうとしたことをいいます。しかしながら,城堡が足りず,土地が狭いということで,天皇の所在地である宮殿までは造られたようですが,城堡などは結局造られませんでした。これが遷都なのかということを議論している間に半年たって,結局天皇や公家たちは京都に戻ってしまいました。

したがって,現在では平安京の図面,指図だけが残っていることになります。近衛の陽明文庫に残っていますし,九条家本の延喜式などにも二種類のものが残っています。ただし,平安京のほとんどが現在の京都市内となっているので,面的な発掘調査はもうできず,点的な発掘調査しかできません。反対に,平城京の場合は国家的な機関で買上げているので,面的な調査ができますが,元となる指図が残っていません。したがって,平城京の場合には発掘調査の結果で図面を造っていく以外にはないのです。また,平城京の場合,基本的な建物様式の構造や配置が分かっていないところがありますが,これまでの調査で,内裏は朝堂院が主要部分のかなりを占めていて,そのまわりに役所があっても,それほどたくさんはなかったようです。そして,この外に,つまり京中に役所と思われるような建物が点在しており,長岡京も同様の様式であったようです。

つまり,この時期律令制で次々と新しい役所がつくられたり,組織がつくられたりして,そのために必要な建物が適宜,京中に造られていったと考えられます。このように京中に役所が散在する有様を示すものとして京中官衙(かんが)という言葉があります。役所は,本来宮の中にすべて集められるべきなのでしょうが,まだどのような役所が必要かわからない過渡的な姿を示す言葉と言えます。その点,平安京では律令制も円熟したかたちで整ってきており,律令国家の最終段階の姿を示していると言えます。つまり,百官の府と言われた平城京でも,まだまだ過渡的要素はあったということです。平安京では,これが逆に形骸化して,統廃合されていくことになります。

まだこの続きがあるのですが,長くなるのでまた明日書きます。