法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

何故,京の都に人々が集まったのか?

 今日は,何故京の都が政治的,経済的に日本の中心となったのかについて少し書きたいと思います。今の東京というか首都圏もそうですが,政治,経済の中心には人が集まってきます。では,京の都はどうだったのでしょうか。

その前に,京の都(京都)というのは何時から言われるようになったのかというと,はっきりしたことは分からないのですが,平安末期ぐらいからだろうと言われています。ただし,実際の京とか京都という言葉の使われ方をみると,地名なのか,一般名詞なのかわからないところがあります。京という町の名前,京都という言い方はもともと都という一般名詞であったわけですが,それが地名になっていったと思います。都というものが地名になったということで,その響き自体が日本の中心地の代名詞のようになったような気がします。

 では,何故京の都に人々が集まってきたのかですが,その理由の一つとして,平安時代の資料にも出ていますが,「都市の賦役同じからず」といって都と鄙(いなか)で税の負担が違っていたのです(都での税率が低かった)。そうなると,税の少ないところの方がよいに決まっているので,地方に住む人々は都へ行けば何とかなるだろうと都を目指す人が大勢集まってきたようです。東京に行ったら何とかなるというような発想に似ているような気がします(現在では,都税と地方税でどれくらい違うのかはよく知りませんが)。

 京都の住民を京戸と言っていますが,京戸帳という戸籍が多分あったと思われます。ただし,現在は残っていません。平安京の周辺から移り住んでいる人が多かったようです。また,昔は国学が地方の学校,大学は都の学校となっていて,その大学へ勉強に来るということで,何年か平安京に住んでいて,その実績を基に,京戸にしてくださいと申請する人もいたようです。それを左京職右京職が認めると,京戸帳とも言うべき戸籍に登録され,京都の人間になるということもあったようです。これを京官といったそうです。

実は,空海弘法大師)も大学に行くために讃岐からやってきたひとりだったのです。長岡京の時代には讃岐から結構多く来ていたようです。それは,空海という大先輩がいたためではないかと思います。ただし,空海は大学がまだ長岡京で十分整備されていなかったために,失望し仏教に入っていったのでないかと思われます。空海がそのまま役人になっていたら,日本の真言密教を創設する人物がいないことになるので,どうなっていたのでしょうか。

 話を戻しましょう。実際,京の都に流入する人間が多く,役所は本来の戸籍に戻させるというのが原則でしたので,不法に京の都に住みついた人々を捕まえていたそうです。これを括出(かっしゅつ)と言い,自ら不法に住んでいたと自首してくることを隠首(おんしゅ)と言っていました。括出は時期によって厳しく行われたり,ほとんど行われなかったりしていたようで,結局うやむやになっていったようです。

 都では,一種の日雇いのようなものがしょっちゅうあり,地方から徴発してというやり方もしていたようですが,都にいる人間を雇うというやり方もしていたようです。地方から徴発された人達は,平安時代,「諸司厨町」と言って,平安京の左京のあたりに,役所ごとで用意された宿所で寝泊りしていたようです。徴発された人達は,たとえば太政官とか神祇官とかいろいろな所に勤めさせられる。神祇官ならば神祇官町という一定の場所が用意されて,そこに長屋のようなものが建てられて,そこで日常生活していました。彼らは,毎日勤めるわけではなく,当番制だったようで,当番の時には役所へ行って,非番のときにはそこでごろごろして,博打をしたりしていたというような記事も残っています。

 このような全国から徴発された人達が(衛士,舎人,采女など),課役のために役所毎の宿所が用意されていたという記録は,平安京になって初めて確認されています。平城京でも当然あって然るべきですが,確認できていません。それ以前になりますと,たとえば藤原京だったら藤原京宮のちょっと南に飛騨町が現在も残っています。あれは飛騨の匠たちが集団居住をさせられていた場所だと思います。

 次回は,この飛騨の匠の話を書いていきたいと思います。