法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

何故,平安京まで頻繁に遷都したのか?

 遷都はなぜ行われたかという課題については,政治的な面を考えていく必要があると思います。ただし,歴代遷宮の時代であった飛鳥時代の頃には,前の天皇はここに宮殿を造ったら,もう百メートル先ぐらいにまた建て替えるというぐらいのことですから,それを遷都とは言えないと思われます。遷宮と言っても別にそれで政治的な変動が起こるというものではないと考えられます。

 ところが,規模,構造が大きくなってからの遷都になってくると,それによって利害関係を受ける人が多くなってくるわけです。基本的には,古代においても遷都は必ず反対の動きがあったと思われます。そこで,たとえば大化の改新の後,中大兄皇子は難波に移るとき,鼠の大群が遷都しようとする方向に大挙して動いたという話(噂,フェイクの類かもしれません)を宮の中に流したようです。それを古老たちが「これは遷都の予兆である」として遷都に賛成したようです。また,難波から飛鳥へ戻る時に,また鼠の大群が動いたというようなことを言って,皆の賛同を得るようにしています。何か事が起こる場合にそれを予め知らせるような予兆があるものだという古代人の考え方を逆手にとった一種の人心誘導(まさにマインドコントロールです。現代人は情報過多であるので,逆に本当かウソかわからないようなデマであってもあっという間に広まってしまいますから,古代の人より現代の人の方がこの手の話を信じてしまいがちと思っています)であったと思われます。

 しかしながら,これがいつも通用するわけではないので,藤原京から平城京へ移る時には,元明女帝の詔に,「私は遷都を必ずしも欲していたわけではない。ただし,衆議もみんなの意見を無視することができないので遷都するのです。そして遷都する以上は都というのは海外からも人が来るところだし,中心の場所だから,それは立派にしようと思う。ただし農民を農繁期に使ってはいけないので,農閑期にしましょう。」ということを言っています。ここで言う衆議とは,根回しをして,コンセンサスを生み出すことであり,これを実践したのが平城京遷都の中心人物になった藤原不比等です。このようにして遷都の方向へ人々の気持を向ける,あるいは共通理解を作り出していき,反対の動きをともかく押えて,遷都を実現したら,今度は新しい土地で,新しい都で新しい政治体制が作り出されていくようにする。遷都ほど強力な政治的行為はなかったと言えます。そういう点では,遷都の政治力学とも言えるのではないかと思います。

 遷都は,旧勢力から離れて,新しい場所に新しい体制をつくることなので,古いところへ残ったら,滅びる以外なかったと思います。つまり,遷都という名のバスに乗り遅れないようにする必要があったわけです。そういう点で,一つの大きなエポックとなったのが平城京から長岡京への遷都だったと思います。それは,大和旧都を捨てて,山背旧都を創り出すことだったからです。事実桓武天皇は即位して間もなくそういう方向を打ち出しており,遷都のことを「公私草創の行為」だと言っています。事実平城京から長岡京へ,長岡京を捨てて平安京へ遷都する時も「甲子革令,辛酉革命」,それぞれ中国で世の中が大きく変わる,そういう年を選んで,あるいはその時を選んで遷都しています。明らかに桓武天皇の意図には,遷都というものは新しい体制をそれによって創り出すのだという意識があって,その時を選んだのだと思います。