法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

26年ぶりの再会

 昨日,成瀬ダムのコンクリート試験室において以前ダム現場で一緒に働いていたK君と26年ぶりに再会しました。今日は,K君とのダムでの思い出について少し書きたいと思います。私が技術研究所から広島のダム現場に転勤になったのが,ちょうど27年前の4月です。現場での最初の仕事は,コンクリート試験室の立ち上げでした。建物自体は出来上がっていたのですが,コンクリート試験に使用する試験機などがなかったので,その調達リストの作成から,バッチやプラントからのコンクリート運搬に必要な車の手配など検討すべきことが山積していました。また,試験室の隣にはフルスケール(粗骨材最大寸法150mmのダムコンクリート)の練混ぜができる300ℓのミキサを備えた練混ぜのための建屋までありました。そこを使ってコンクリートの現場配合の選定をしなければなりませんでした。上司にまずは試験室で働く作業員の手配をお願いしました。できればコンクリートダムの試験室の経験者が欲しいとお願いしました。上司を通して協力会社から宛がわれたのは,仲田のおばちゃんと彼の甥っ子ともう一人若い優男の三人でした。この仲田のおばちゃんは,肝っ玉母さんみたいな人で,以前九州の犬鳴ダム(確か清水建設の施工だったと思います)でコンクリートの品質管理をしていた人という協力会社の触れ込みでしたが,会ってみたらコンクリートの事は全く知らず,試験室で作業していたというだけで,当然コンクリート試験に関する知識は皆無で,供試体の作り方とフレッシュコンクリートの試験方法だけ知っていました(それも経験値のみ)。ただし,人集めは得意ということだったので,仲田の母ちゃんにとりあえず試験室で働けそうな人物を集めてもらうことにしました。それが最初に書いた二人でした。ひとりは元ヤンキーの兄ちゃん,もう一人は中学中退した女たらしのガキんちょでした。さすがにこれではコンクリート試験を任せられないので,もう少しちゃんとした人をよこしてもらいたいと頼んだところ,仲田の母ちゃんの地元の宮崎だったか大分から引っ張ってきたのがK君でした。彼は,土木とは全く関係ない仕事(薬だったかの営業だったと思います)をしていたのですが,事情があって広島までやってきたようです。彼だけが大学出で,母ちゃんも含めて中学もまともに出ていないポンコツメンバーでした(あくまでも私の第一印象です)。そこから,経験だけでなく,理論も含めて少しずつ彼らにコンクリートのことを教えていきました。半年過ぎたあたりから,やっと普通にコンクリート試験をこなしてもらえるようになりましたが,任せるまでにはいかず品管やバッチャのオペなどを専門にしているSという会社から社員を連れてきて,その人にK君を預けました。やがて,K君以外はコンクリート試験室からいなくなった(辞めたのかどうかもよくわかりません)ので,K君自体もSの会社に転籍しました。私は,彼がSに移る前に東京に戻ってしまったので,彼も当然コンクリートの仕事から離れてしまったものと思っていました。彼が広島に来た翌年に結婚したのですが,どうしても結婚式に出てくれと言われ,宮崎の都城まで行きました。そんなこともあって,彼がどうなったか気にはなっていたのですが,連絡を取る手段もなくそのままとなっていました。それが,遥か秋田のダム現場で再開できるとは思いもよりませんでした。彼も子供が二人いて,どちらも大学院と大学に通っていると聞いてそんなに月日が経ったのかとあらためて思いました。いろいろ昔話をしてあの頃の記憶がいろいろ甦ってきました。彼もまだ暫く頑張るということだったので,次に成瀬ダムに行った時また会いましょうと言って別れました。こんな出会いもあるのだとつくづく思った次第です。