法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

私が大学の教員になった経緯(続き)

大学の教員になる話はこれでなくなったと思い,田邊先生のところに話をしに行きました(博士論文のこともあったので)。先生からは”このようなチャンスは二度と来ないと思わないと駄目だ。後半年で論文を仕上げればよいではないか。大学の先生というのは,いわば八百屋や肉屋と同じで,個人店主のようなものだ。自分の差配一つでいろいろな研究ができる。その代わり,自分で予算も引っ張ってこないと何もできないぞ。満木先生には,少し待ってもらうように話をする”といわれました。いままで,サラリーマンとしてある意味会社の歯車の一つとしてやってきたところはありますし,ある意味守られた中で仕事をしていたのだと気付かされました。ここまで言われたらやるしかないと思い,それから数か月は土日もなく,朝一番で研究所に行き,夜中過ぎまで業務が終わってから,論文のまとめをしました。残業時間(その時は残業自体つけられなかった)でいったら月に200時間は超えていたと思います。その年の後半にようやく論文が出来上がり(その数か月前には,土木学会論文集を2編通し,海外論文を2編通しました。私の大学は論文博士に対しては,結構厳しかったのです),ようやく審査の段階までたどり着きました。今度は,先生からいくつかの課題(英語については,海外論文2編で免除してもらいました)を出され,それを必死になって作成しました(専門分野だけでなく,一般的な内容までありました)。それをようやく提出して,内部での審査(主査である田邊先生と副査に2名(鋼構造の先生と水理の先生))があり,いくつかの指摘を受けて,それを修正してようやく2000年の春に博士論文を提出することができました。論文作成自体は,現場から戻って始めたので足掛け4年かかったと思います。

 大学の側はどうだったかというと,何人か候補がいたようですが,難航していたようで(実際は分かりません),博士の取得が確実になったことを満木先生にお話したところ,それでは,一度他の先生に会ってもらえますかといわれ,確か吉祥寺の飲み屋さんで草深先生(地盤の先生)と髙橋先生(計画の先生),満木先生の4人で会うことになりました。まあ,いわゆる首実検(教員としてやっていけそうかどうか見定める)というものです。印象はどうだったかわかりませんでしたが,一応合格だったようです。

大学の方である程度採用の方向に進むということになったので,今度は会社内での根回しをすることになりました。ちょうどその頃続けて何人かの人が辞めて大学教員になったりしていたので,いきなり話を持ち出したら何を言われるかわからないと思って,上司にそれとなく話をしました。そうすると上司から今もう一人大学に移るかどうかの話が出ているといわれました。ただし,まだ確定ではないようだと言われ,とりあえず次長と話をするといわれました。どうも私の話のほうが少し早かったようで,もう一人の方(今はいろいろなところで活躍されている土木の業界では有名な方)を差し置いて,私が会社を辞めて大学の教員となることが内諾されました(決まった後,もう一人の方から,もっと早く上司に話しておけばよかったといわれました)。何事にもタイミングというのがあるようです。

こうして,会社の方も何とか承認というかOKが出て,2001年の4月から大学の教員となることができました。ただし,それまで会社務めしかしてなくて,全く教育歴がなかったので,最初助教授での採用のはずだったのですが,専任講師からのスタートとなりました。それでも2003年に助教授,2004年には教授に昇格できたので御の字といったところではないでしょうか。一つ誤算があったのは,会社での勤務年数が20年未満だったので,退職金が雀の涙のような金額であり,かつ大学に移った年の夏のボーナスがなかったので,家のローンが払えるか払えないかのギリギリであったところが,オチというところでしょうか。

それでも,大学に移って19年,会社にいた時よりも長く大学にいることになります。入った当時の学科の先生は誰もいらっしゃらなくなって,いつの間にか学科で一番長く(年齢が上の先生はいらっしゃいます)いることになります。