法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

土木学会誌の変遷(戦後編)

 昨日に続き,土木学会誌の変遷について書いていきたいと思います。

 終戦直後は,紙の供給が不足したために,昭和21年(1946年),22年(1947年)が年2回の発刊,昭和24年までは隔月に近い年5回の発行となり,昭和25年(1950年)にようやく月刊になっています。その後は,休刊になることもなく現在まで続いています。

 昭和42年(1967年)からは,4月号または5月号の増刊号として前年のアニュアルが出されるようになりました(昭和58年(1983年)まで続きました)。

 昭和50年(1975年)1月号は,土木学会誌60周年記念ということで,業界の著名人の執筆や司馬遼太郎氏と高橋裕先生との対談などが組まれた特集号となっています。また,学会誌で特集が組まれるようになったのは,昭和38年(1963年)5月号の北陸豪雪特集が最初です。その後は,不定期に年3回~9回特集が組まれています。

 学会誌に初めて写真が掲載されたのは,昭和10年(1935年)12月号で,紹介写真という目次で”東京帝國大學工學部土木工學科新教室及実験室,京都帝國大學工學部中央実験所”というタイトルでした。その後は,昭和22年(1947年)に口絵写真として”関門国道隋道 の工事写真が掲載されています。ただし,口絵写真がシリーズ化したのは昭和31年(1956年)の5月号からです。

 座談会については,昭和38年(1963年)1月号が最初で,”土木技術と人材”というタイトルで八十島編集委員長が司会となり,今沢氏(建設省),生出氏(鹿島建設),堀氏(富士製鉄),堺氏(編集副委員長)の産官学の方たちによる座談会となっています。目次がそれまでの表紙裏の1ページから見開き2ページになったのが,昭和46年(1976年)であり,学会誌に一緒に掲載されていた論文が論文集として独立したのは,昭和60年(1985年)からです。

 土木学会誌の表紙にデザインが導入されたのは,昭和37年1月号(1962年1月号)からで,中央部の帯に学会誌の名称が入り,その上に大きな円弧が描かれたものとなっています。デザインを手掛けたのはS.M.デザインアソシエーツの横溝敬三郎氏で,表紙のことばとして “それぞれは,説明図ではなく一般的なイメージの足がかりにすぎません。例えば,円弧と中央のスペースの鋭い接触が,非常な精密さ,緊張感を,対称的な構成が,種々の要素の統合と,安定などを意味します。” が雑誌に掲載されていました。この表紙のデザインは,昭和39年(1964年)まで続いています。

 昭和31年(1956年)の4月号からは表紙がカラーの1色刷りとなり,昭和37年(1962年)から2色刷りのカラーとなっています。

 昭和40年(1965年)は,発刊50年の記念の年であり,デザインも一新されます。また,昭和43年からは目次の一番下に”表紙デザイン 正会員・塩見武弘”という記載が入り,これは毎号記されるようになりました。また,この年から毎年表紙デザインが代わるようになっています。昭和46年(1971年)からは,東大生研の丸安研究室が図形プログラムによる表紙デザインを担当しています。昭和47年(1972年)も丸安研究室が表紙デザインを担当していますが,目次のところに,”表紙デザイン/企画プログラム制作・東京大学生産技術研究所丸安研究室/富士山を中心とする同心円上の高低差を求めコンピュータグラフィック化したもの”と記載されています。

 今日はここまでとします。明日は日本の高度成長期において土木学会誌の表紙がどのように変わっていったか書きたいと思います。