法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

土木学会誌の変遷(戦前編)

 昨日書いたように,今日は土木学会誌の変遷について少し書きたいと思います。土木学会誌は,今年で創刊から105年の歴史ある学術雑誌です。大正4年(1915年)に第1巻が発刊され,目次も表紙に書かれたデザインとなっています。第1号では,海中コンクリート(混擬土と書く)及び鉄筋コンクリートに関する論説や報告,その時代を反映して朝鮮における土木事業という記事が掲載されています。当時は縦書きでしたが,大正14年(1925年)から横書きに変わっています。それは,論説,集報などに数式などがあり,表記するのが難しかったためではないかと思われますが,さらに,英文による論説や彙集等が掲載されるようになって,縦書きの文章に横文字の文章が入ることの煩雑さの方が変更の大きな理由だったような気がします。

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土木学会誌第1巻第1号の表紙

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縦書き時代の学会誌中の英文

 大正14年(1925年)2月号の学会誌の中に“大正十三年土木学会事業報告(八)に会誌の組方変更として「従来会誌は縦組なりしを大正十三年二月発行第十巻第一号より之を横組と為せり」という記述がありますが,何故変えたのかは残念ながら記述されていませんでした。

 土木学会誌は,最初の14年間(昭和4年(1929年)まで)は隔月誌で,偶数月に発刊されていました。また,創刊から昭和19年(1944年)までは1年間通してのページ番号(日本コンクリート工学会の学会誌である“コンクリート工学”は今でも1年間通し番号のページとなっています)となっていました。また,昭和4年から学会誌に広告が載るようになり,現在の大手建設会社や試験機メーカ,橋梁メーカなどの広告が一社1頁で掲載されていました。また,瓦会社やガラス会社の広告まで掲載されていました。

 戦前は論文や海外文献の抄録のようなものが多く掲載されていました。土木学会誌は,その当時最新技術や海外からの文献などをタイムリーに読むことができる貴重な情報雑誌であったと思います。 

 コンクリートに関する最初の記事は,第1巻第2号で「混擬土中ニ於ケル鐡筋ノ錆」であり,100年以上前から鉄筋コンクリートに用いられる鉄筋の錆について問題としており,耐久性は古くて新しい研究といえるのではないでしょうか。

 学会誌が縦書きの間は,英単語がすべてひらがな表示してありました。例えば,じぶらるたー,べにす,こんくりーと,せめんと,おはいお川,にゅーよーく等今ですと,却って読みにくいものですが,当時はこちらのほうが親切だったのかもしれません。ただし,大正5年(1916年)の2月号では表題に”英國Nensden停車場内鐡筋混擬土造跨線橋ニ於テ”といった地名を縦書きでアルファベット表記してあったり,大正8年(1919年)4月号では不定流(Unsteady Flow)のように専門用語を英語で併記してあったりする例もあり,全てひらがな表記というわけではなかったようです。

 昭和の初めまでは,毎年視察旅行記事が掲載されていたり,法学博士が日本経済情勢についての記事を載せていたり,大蔵省や内務省からの工事概要が掲載されていたりと,今よりもむしろ総合情報雑誌の形態に近ったようです。また,記事には工學士,工學博士,工學得業士(?) 等執筆者の身分が明記されており,大学を出たり博士号を取得していることがエリートの証のような時代背景であったことが偲ばれます。

 日中戦争から太平洋戦争時代では,土木防空資料や大東亜建設調査資料が誌面を埋め,CIVIL ENGINEERING の雑誌でありながら,MILITARY ENGINEERING雑誌に近い内容の記事が掲載されているのも時代を反映しているといえます。

 昭和4年(1929年)から昭和18年(1943年)までは月刊でしたが,昭和19年(1944年)では年4回,終戦の年である昭和20年では休刊に追い込まれています。

 今日は,ここまでとします。明日は戦後編で,土木学会誌の表紙がどのようにデザインされるようになったかを書きたいと思います。