高松塚古墳壁画の一般公開へ(後編)
高松塚古墳の発掘調査,石室の解体は,インタビューに伺った2007年の8月の終わりには既に終了していて,石室があった場所は何もなかったのですが,土留めなど発掘に非常に苦労された跡を見ることができました。
石室の取り出しに先立って,京都府加茂町の実験場において石室を模擬したものの吊り上げ実験が行われました。この実験に際して,三村氏が土質についていろいろ助言をされたことが,実際の作業で非常に役立ったと佐野氏が言われていました。佐野氏は,当初石室周りの土をただ取り除いたらよいと思われていたようですが,実際には,石室周りに大きな亀裂があって,地盤自体の強度も含めて確認することの重要性が分かったそうです。
三村氏から,事前調査においては通常その地盤の破壊試験などで強度調査を行うそうですが,高松塚古墳ではそれができなかったため(確か古墳自体が国宝のため,むやみに掘ったり,試料を採取することができないと言われていたと思います),非破壊検査を実施したそうです。その時用いたものが軟岩硬度計という試験機で,先端のニードルを差し込んで,その反発力から地盤の強度を推定するものです。地盤強度を推定するために,土や粘土などを用いて軟岩硬度計の測定と一軸試験(破壊試験)を実施し,両者の結果から検量線を作成しました。それを基に軟岩高度計の試験結果(針の貫入量及び貫入抵抗)から地盤強度を推定し,地盤の安定計算を行いました。その結果,何もしないで石室周りの土砂を取り除くと崩壊してしまうことが分かり,周囲に矢板を設置することにしたそうです。その結果,かなり安定度が上がるという計算結果が得られました。また,石室周囲の地盤上に石室を吊り上げるためのクレーンを設置しなければなりません。それを支持するためにも矢板の設置が必要だったそうです。
天井石の端部は,側壁があるので大丈夫ですが,真ん中に載っている石は大きいだけでなく,き裂が入っていたので,吊り上げが可能か最後まで心配だったそうです。さらに,地震痕跡(過去に起こった地震)による地盤のき裂が縦横に生じていて,取り除く際に非常に不安があったそうです。佐野氏は,地盤に対する三村氏からの助言及び指導が非常に功を奏したと言われていました。特に,石室周囲に矢板を設置して一体化させていなかったら,クレーンを設置した際,周囲の地盤が崩壊していたと言われていました。
石室撤去後は,矢板を残置させた状態で補強し,発掘面及び人工物の境界を明確した状態で仮整備を行い,修復が終了するまでその状態で保存することになりました。また,古墳築造時において丘陵がどのように改作され,地盤がどのように作られていったのか調査を行った後埋戻しし,公園の整備を行っていくとのことでした。石室自体は,約1km北側の明日香の公園事務所に文化庁が保存修理施設を設けて,取り出した16の石を収納し,修復を行っていくそうです(12年経って修復がようやく終わったことになります)。
佐野氏から,石室の解体時にワイヤが外れた時があったそうです。その時,壁画に損傷があったら自殺するしかないと思ったそうです。特に損傷もなく,石室の解体が無事終了した時はホッとしたそうです。この成功は,多く方たちが力を合わせ,知恵を出し合った賜と言えるといわれていました。また,皆が一丸となって取り組めば,どんな困難なこともうまくいくものであるとも言われていました。
佐野氏の語り口は,西岡氏や山本氏にどこか似たところがあり,以前にも書きましたが,一つのことを成し遂げた人たちが持つ一種のオーラではないかと思っています。そんなオーラを見せられたらよいのですが,凡人には到底到達しえない領域のように思いながら帰京しました。