法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

奈良の大仏様

 3月はじめの新聞の本の紹介欄に“遥かなる巨大仏(半田カメラ著,(株)書肆侃侃房刊)”というのに目が止まり,翌日には生協に本の注文(遥かなる巨大仏の前に“夢見る巨大仏”も発刊されていたので,一緒に注文しました)をしたのですが,このコロナ禍で,その後本の受け取りができず,今週ようやく手に入れることができました。この本のことについては,別の機会に紹介しますが,巨大仏つながりで,奈良の大仏様について今日は少し書きたいと思います。以前土木施工という雑誌に書いた記事の要約版です。

 奈良の東大寺の大仏様といえば,知らない人がいないくらい有名な仏像です。正式には,金光明四天王護国之寺本尊盧舎那仏坐像ですが,この大仏様,最近テレビでもよく取り上げられており,何度も罹災していることを知っている方も多いのではないでしょうか。現在の御姿は,今から約300年以上前の江戸時代に公慶上人によって再建されたものです。

 奈良の大仏様は,天平十七年(745年)に平城京の東の山金里に造立を開始し,天平勝宝四年(752年)に開眼供養会が行われています。国家の一大プロジェクトであり,当時の世界最先端の鋳造技術を駆使して造立されたものです。その製造方法自体は,現在のダム建設と似ていて,大仏をいくつもの層(8層)に分けて鋳かけていったといわれています。大仏造立の鋳師としては,従五位下高市真国らの名前が記録に残っています。ただし,その後の彼ら鋳師の系譜の消息の一切は不明となっており,一大プロジェクトの最先端の技術の伝承が歴史の表舞台から消えてしまっています。

 延暦八年(789年)には,造東大寺司が廃止され,国家予算によるプロジェクトが形式上終了した後,延暦五年(786年)には早くも背部に亀裂が生じ,延暦二十三年(803年)には左手が脱落,実忠和尚が中心となってこれらを修理しています。さらに,天長四年(827年)には背部の亀裂が進行し,自立することができなくなる危険性から背面を支えるように小山が築かれています。その後,斉衡二年(855年)には頭部が墜落し,貞観三年(861年)斎部宿祢文山が修理していますが,小山はそのままとなりました。当時の国の威信をかけた一大プロジェクトであった大仏造立も,その技術的な困難さから,30年余りで創建時の姿を維持するのが困難な状況にあったのがわかります。現在の巨大な土木構造物も一つ間違えば,奈良の大仏様のようになってしまうかもしれません。

 治承四年(1180年)平重衡による南都焼討によって大仏もその大半が焼け落ちてしまいます。翌年には,造寺官が任命され,俊乗房重源(その時60歳ですから,当時の平均寿命からいったら,相当な老人であった思います。今だったら80歳以上くらいに相当するのではないでしょうか)が造東大寺大勧進に起用されて,日本にいた宋の陳和卿と舎弟陳仏寿ら7人に大仏鋳造を依頼し,日本人鋳師草部是助ら14人の協力によって,大仏が鋳造されることになりました。この段階で,大仏造立から約330年が経過し,日本の鋳物技術も奈良時代に比べて当然進歩しており,僅か2年の短期間で完成しています。大仏鋳造には,宋銭,金銅文房具,法具,酒食器などの良質な銅材料が使用されたそうです。ただし,当時の国内の鋳物師だけではこの偉業を成し遂げられず,宋の陳和卿らの援助を受けないと大仏再興が叶わなかったことも事実です。つまり,造立時の技術が伝承されておらず,維持管理やリニューアルができなかったということです。国家プロジェクトであっても,時間経過とともに技術の伝承が行われていくことの難しさを示す例ではないかと思います。

 奈良の大仏様の継接ぎだらけの御姿を見るたび,どんなに大変であっても後世にその御姿を残そうする人々の熱い想いをひしひしと感じるにつけ,土木技術も同じように後世に残そうとする熱い想いを持つことが大事であるといえます。

 奈良の大仏様について,東大寺の話も含めてこれからもいろいろ紹介していきたいと思っています。私の仏像好きの話もこれから書いていきたいと思います。

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奈良の大仏様(私が撮った最も新しい御姿,2019年9月撮影)