法政大学コンクリート材料研究室

法政大学コンクリートの活動報告

紺碧の空

 先日,朝ドラの“エール”のことを少し書きましたが,今週は“紺碧の空”誕生までの話(実際はどうだったかは別として,生みの苦しみの週といったところですか)で,ネットなどでは早稲田関係者が大いに盛り上がっていますね。

 私の“紺碧の空”の出会いは,中学生の時でした。私の地区の中学校は,いくつもの小学校から生徒が進学していたので,今では考えられないかもしれませんが,私の学年は16クラスまでありました。ですので運動会も紅白ではなく,赤白青緑(だったと思いますが,定かではありません)の4つのチームに分かれて行っていました。確か2年生の時の運動会だったと思いますが,各チームで歌う応援歌があって,応援団(各クラスから選ばれた生徒)が応援のやり方や歌なんかを決めていました。そのリーダーだった生徒のお兄さんだったか従妹だったか忘れましたが,東京の大学に行っていて,“紺碧の空”をチームの応援歌として歌うことになったのです。それが“紺碧の空”との出会いでした。その歌を聞いた時,この世にこんな歌があるのかと衝撃を受けた覚えがあります。血滾るというのはまさにこの歌のためにあるのかなと思ったほどです。人の気持ちを高揚させる歌詞と曲で,どこか軍歌っぽい(気に障った方は申し訳ありません)と思ったのかもしれません。“紺碧の空”を覚えてからは,学校の登下校の時に友達と一緒に歌っていました。今でも歌える数少ない歌の一つかもしれません。

 運動会の思い出と言えば,私が通った高校には音楽科と美術科があって,体育祭(高校では運動会とはいっていなかった)の時には,美術科の学生たちが大看板を作製し(すごく凝ったものでした),毎年それをみるのが楽しみでした。騎馬戦や棒倒し(ほとんど殴り合いの喧嘩で,当然男子のみの競技)など,いまでは危険だからとかいってやっていない競技があって,結構それはそれで面白かったのを覚えています。

 子供たちの運動会は,競技を見るというより如何に子供が出る競技を8ミリビデオでうまく撮れる場所を確保するかということに奔走していて,全体を見るのではなく,子供の走る姿などカメラのアングル越しでしか見た記憶がありません。私が小学校の時などは,父兄が観に来るなどということはなかったように覚えています。今は,入学,卒業から運動会,文化祭などあらゆるイベントに両親だけでなく,両親の祖父母まで来るのが当たり前のようになっています。今回の新型コロナウィルスの禍で,それらの行事がことごとくなくなってしまっているのは残念でならないと思っている方たちはたくさんいるのではと思います。

 神宮球場で,“紺碧の空”が聞かれるのは何時になるのでしょうか。